もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固《もと》より内心に確乎《かっこ》たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式《あかげっとしき》に縹緲《ひょうびょう》とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田《たんでん》に膠着《こうちゃく》しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺《だま》し終《おお》せて知らん顔をしているのは善《よ》くない事だから、ここで全く懺悔《ざんげ》してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体《からだ》に活気を漲《みな》ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸《いっすん》もあがきが取れなかったのである。
 そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開《あ》けないうちに、早速|一工夫《ひとくふう》してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう詳《くわし》い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧《じゅうらん》すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
 河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執《と》ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると股野義郎《またのよしろう》である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後《ちくご》の国は久留米《くるめ》の住人に、多々羅三平《たたらさんぺい》という畸人《きじん》がいると吹聴《ふいちょう》した事がある。
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