と西洋人が二人いた。朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。出迎えのものが挨拶《あいさつ》しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。松田さんは縞《しま》の縮《ちぢみ》の襯衣《シャツ》の上に薄い背広を着ていた。背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。我々と英国人を二所《ふたところ》に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。したがって英人とは言葉を交《まじ》えなかった。
やがて松田さんが案内になって表へ出た。貯水池の土堤《どて》へ上《あが》ると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作《れんがづく》りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその洒落《しゃれ》た家がほとんど一軒ごとに趣《おもむき》を異《こと》にして、十軒|十色《といろ》とも云うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵《こしら》えたものだと云われた。
市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど微《かす》かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。我々の立っているつい傍《そば》でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。
事務所へ帰って午餐《ひるめし》の御馳走《ごちそう》になったとき英国人は箸《はし》も持てず米も喰えず気の毒なものであった。この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を如何《いかん》ともする事のできないのは案外である。その代り官話《かんわ》は達者だそうだ。松田さんは用事が忙《いそが》しいとかで、食卓へは出て来られなかった。接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。けれども
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