冷たい。今朝|埋《い》けた佐倉炭《さくらずみ》は白くなって、薩摩五徳《さつまごとく》に懸《か》けた鉄瓶《てつびん》がほとんど冷《さ》めている。炭取は空《から》だ。手を敲《たた》いたがちょっと台所まで聴《きこ》えない。立って戸を明けると、文鳥は例に似ず留《とま》り木《ぎ》の上にじっと留っている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上からこごんで籠の中を覗き込んだ。いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華奢《きゃしゃ》な一本の細い足に総身《そうみ》を託して黙然《もくねん》として、籠の中に片づいている。
自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこの事だけは抜いたと見える。自分が炭取に炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く気色《けしき》もない。音を立てないで見つめていると、文鳥は丸い眼をしだいに細くし出した。おおかた眠《ねむ》たいのだろうと思って、そっと書斎へ這入ろうとして、一歩足を動かすや否や、文鳥はまた眼を開《あ》いた。同時に真白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸を閉《た》てて火鉢《ひばち》へ炭をついだ。
小説はしだいに忙《いそが》しくなる。朝は依然として寝坊をする。一度|家《うち》のものが文鳥の世話をしてくれてから、何だか自分の責任が軽くなったような心持がする。家のものが忘れる時は、自分が餌《え》をやる水をやる。籠《かご》の出し入れをする。しない時は、家のものを呼んでさせる事もある。自分はただ文鳥の声を聞くだけが役目のようになった。
それでも縁側《えんがわ》へ出る時は、必ず籠の前へ立留《たちどま》って文鳥の様子を見た。たいていは狭い籠を苦《く》にもしないで、二本の留り木を満足そうに往復していた。天気の好い時は薄い日を硝子越《ガラスごし》に浴びて、しきりに鳴き立てていた。しかし三重吉の云ったように、自分の顔を見てことさらに鳴く気色はさらになかった。
自分の指からじかに餌《え》を食うなどと云う事は無論なかった。折々|機嫌《きげん》のいい時は麺麭《パン》の粉《こ》などを人指指《ひとさしゆび》の先へつけて竹の間からちょっと出して見る事があるが文鳥はけっして近づかない。少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼《つばさ》を乱して籠の中を騒ぎ廻るのみであった。二三度試みた後《のち》、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。今の世にこんな事のできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖徒《せいんと》の仕事だろう。三重吉は嘘《うそ》を吐《つ》いたに違ない。
或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立てて侘《わ》びしい事を書き連《つら》ねていると、ふと妙な音が耳に這入《はい》った。縁側でさらさら、さらさら云う。女が長い衣《きぬ》の裾《すそ》を捌《さば》いているようにも受取られるが、ただの女のそれとしては、あまりに仰山《ぎょうさん》である。雛段《ひなだん》をあるく、内裏雛《だいりびな》の袴《はかま》の襞《ひだ》の擦《す》れる音とでも形容したらよかろうと思った。自分は書きかけた小説をよそにして、ペンを持ったまま縁側へ出て見た。すると文鳥が行水《ぎょうずい》を使っていた。
水はちょうど易《か》え立《た》てであった。文鳥は軽い足を水入の真中に胸毛《むなげ》まで浸《ひた》して、時々は白い翼《つばさ》を左右にひろげながら、心持水入の中にしゃがむように腹を圧《お》しつけつつ、総身《そうみ》の毛を一度に振《ふ》っている。そうして水入の縁《ふち》にひょいと飛び上る。しばらくしてまた飛び込む。水入の直径は一寸五分ぐらいに過ぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、背は無論余る。水に浸《つ》かるのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣然《きんぜん》として行水《ぎょうずい》を使っている。
自分は急に易籠《かえかご》を取って来た。そうして文鳥をこの方へ移した。それから如露《じょろ》を持って風呂場へ行って、水道の水を汲《く》んで、籠の上からさあさあとかけてやった。如露《じょろ》の水が尽きる頃には白い羽根から落ちる水が珠《たま》になって転《ころ》がった。文鳥は絶えず眼をぱちぱちさせていた。
昔紫の帯上《おびあげ》でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡《ふところかがみ》で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅《うすあか》くなった頬を上げて、繊《ほそ》い手を額の前に翳《かざ》しながら、不思議そうに瞬《まばたき》をした。この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう。
日数《ひかず》が立つにしたがって文鳥は善《よ》く囀《さえ》ずる。しかしよく忘れられる。或る時は餌壺《えつぼ》が粟《あわ》
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