その大部分、即ち或る水平以上に達したる作物に対してはこの保護金なり奨励金なりを平等に割り宛て、当分原稿料の不足を補うようにしたら可《よ》かろうと思う。固《もと》より各人に割り宛てれば僅かなものに違ないけれども、一つの短篇について、三十円|乃至《ないし》五十円位な賞与を受ける事が出来たなら、賞与に伴う名誉などはどうでも可いとして、実際の生活上に多少の便宜はある事と信ぜられるからである。こうすれば雑誌の編輯者とか購買者とかにはまるで影響を及ぼさずに、ただ雑誌を飾る作家だけが寛容《くつろ》ぐ利益のある事だから、一雑誌に載る小説の数がむやみに殖《ふ》える気遣《きづかい》はない。尤《もっと》も自分で書いて自分で雑誌を出す道楽な文士は多少|増《ます》かも知れないが、それは実施の上になって見なければ分らない。
 余は以上の如く根本において文芸院の設置に反対を唱うるものであるが、もし保護金の使用法について、幸いにも文芸委員がこの公平なる手段を講ずるならば、その局部に対しては大《おおい》に賛成の意を表するに吝《やぶさ》かならざるつもりである。その他の企画についても悉《ことごと》く非難する必要は無論認めない。けれども大体の筋からいって、凡《すべ》てこれらは政府から独立した文芸組合または作家団というような組織の下に案出され、またその組織の下に行政者と協商されべきである。惜《おし》いかな今の日本の文芸家は、時間からいっても、金銭からいっても、また精神からいっても、同類保存の途を講ずる余裕さえ持ち得ぬほどに貧弱なる孤立者またはイゴイストの寄合《よりあい》である。自己の劃したる檻内《かんない》に咆哮《ほうこう》して、互に噛《か》み合う術は心得ている。一歩でも檻外に向って社会的に同類全体の地位を高めようとは考えていない。互を軽蔑した文字を恬《てん》として六号活字に並べ立てたりなどして、故《こと》さらに自分らが社会から軽蔑されるような地盤を固めつつ澄まし返っている有様《ありさま》である。日本の文芸家が作家《オーソース》倶楽部《クラブ》というほどの単純な組織すらも構成し得ない卑力《ひりょく》な徒《と》である事を思えば、政府の計画した文芸院の優《ゆう》に成立するのも無理はないかも知れぬ。
[#地から2字上げ]――明治四四、五、一八―二〇『東京朝日新聞』――



底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   1998(平成10)年7月24日第26刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
1999年8月13日公開
2003年10月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング