る。しかし読んでしまっていかにも感じがわるい。悲壮だの芳烈だのと云う考えは出て来ない、ただ妙な圧迫を受ける。ひまがあったら、この感じを明暸《めいりょう》に解剖して御目にかけたいと思うが今では、そこまでに頭が整うておりませんから一言にして不愉快な作だと申します。沙翁の批評家があれほどあるのに、今までなぜこの事について何にも述べなかったか不思議に思われるくらいであります。必竟《ひっきょう》ずるにただ真と云う理想だけを標準にして作物に対するためではなかろうかと思います。現代の作物に至ると、この弊を受けたものは枚挙に遑《いとま》あらざるほどだろうと考える。ヘダ・ガブレルと云う女は何の不足もないのに、人を欺《あざむ》いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい真似《まね》をやる、徹頭徹尾不愉快な女で、この不愉快な女を書いたのは有名なイブセン氏であります。大変に虚栄心に富んだ女房を持った腰弁がありました。ある時大臣の夜会か何かの招待状を、ある手蔓《てづる》で貰いまして、女房を連れて行ったらさぞ喜ぶだろうと思いのほか、細君はなかなか強硬な態度で、着物がこうだの、簪《かんざし》がこうだのと駄々《だだ》を捏《こ》ねます。せっかくの事だから亭主も無理な工面《くめん》をして一々奥さんの御意《ぎょい》に召すように取り計います。それで御同伴になるかと云うと、まだ強硬に構えています。最後に金剛石《ダイヤモンド》とかルビーとか何か宝石を身に着けなければ夜会へは出ませんよと断然申します。さすがの御亭主もこれには辟易《へきえき》致しましたが、ついに一計を案じて、朋友《ほうゆう》の細君に、こういう飾りいっさいの品々を所持しているものがあるのを幸い、ただ一晩だけと云うので、大切な金剛石の首輪をかり受けて、急の間を合せます。ところが細君は恐悦の余り、夜会の当夜、踊ったり跳《は》ねたり、飛んだり、笑ったり、したあげくの果《はて》、とうとう貴重な借物をどこかへ振り落してしまいました。両人は蒼《あお》くなって、あまり跳ね過ぎたなと勘づいたが、これより以後|跳方《はねかた》を倹約しても金剛石が出る訳でもないので、やむをえず夫婦相談の結果、無理算段の借金をした上、巴里《パリ》中かけ廻ってようやく、借用品と一対《いっつい》とも見違えられる首飾を手に入れて、時を違《たが》えず先方へ、何知らぬ顔で返却して、その場は無事に済ましました。が借金はなかなか済みません。借りたものは巴里だって返す習慣なのだから、いかな見え坊の細君もここに至って翻然《ほんぜん》節を折って、台所へ自身出張して、飯も焚《た》いたり、水仕事もしたり、霜焼《しもやけ》をこしらえたり、馬鈴薯《ばれいしょ》を食ったりして、何年かの後ようやく負債だけは皆済《かいさい》したが、同時に下女から発達した奥様のように、妙な顔と、変な手と、卑《いや》しい服装の所有者となり果てました。話はもう一段で済みます。
ある日この細君が例のごとく笊《ざる》か何かを提《さ》げて、西洋の豆腐《とうふ》でも買うつもりで表へ出ると、ふと先年|金剛石《ダイヤモンド》を拝借した婦人に出逢《であ》いました。先方は立派な奥様で、当方《こちら》は年期の明けた模範下女よろしくと云う有様だから、挨拶《あいさつ》をするのも、ちょっと面はゆげに見えたんでしょうが、思い切って、おやまあ御珍らしい事とか何とか話かけて見ると案のごとく、先方では、もうとくの昔に忘れています。下女に近付はないはずだがと云う風に構えていたところを、しょげ返りもせず、実はこれこれで、あなたの金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟《たた》って、今でもこの通りだと、逐一《ちくいち》を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物《ねりもの》ですよと云ったそうです。それでおしまいです。これは例のモーパッサン氏の作であります。最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます。軽薄な巴里《パリ》の社会の真相はさもこうあるだろう穿《うが》ち得て妙だと手を拍《う》ちたくなるかも知れません。そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります。よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎《いなか》育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗《きれい》に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗《あん》に人から瞞《だま》されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気《ばかげ》た働きを
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