や》ましいのかも知れません。――なるほど昼寝は致します。昼寝ばかりではない、朝寝も宵寝《よいね》も致します。しかし寝ながらにして、えらい理想でも実現する方法を考えたら、二六時中車を飛ばして電車と競争している国家有用の才よりえらいかも知れない。私はただ寝ているのではない、えらい事を考えようと思って寝ているのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない。諸君も閑人ではない。閑人と思うのは、思う方が閑人である、でなければ愚人である。文芸家は閑が必要かも知れませんが、閑人じゃありません。ひま人と云うのは世の中に貢献する事のできない人を云うのです。いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事のできない人を云うのです。こう云う人は肩で呼吸《いき》をして働いていたって閑人です。文芸家はいくら縁側に昼寝をしていたって閑人じゃない。文芸家のひま[#「ひま」に傍点]とのらくら華族や、ずぼら金持のひま[#「ひま」に傍点]といっしょにされちゃ大変だ。だから芸術家が自分を閑人と考えるようじゃ、自分で自分の天職を抛《なげう》つようなもので、御天道様《おてんとうさま》にすまない事になります。芸術家はどこまでも閑人じゃないときめなくっちゃいけない。いくら縁側に昼寝をしても閑人じゃないときめなくっちゃいけない。しかしこれだけ大胆にひま人じゃないと主張するためには、主張するだけの確信がなければなりません。言葉を換《か》えて云うといかにして活きべきかの問題を解釈して、誰が何と云っても、自分の理想の方が、ずっと高いから、ちっとも動かない、驚かない、何だ人生の意義も理想もわからぬくせに、生意気を云うなと超然と構えるだけに腹ができていなければなりません。これだけにできていなければ、いくら技巧があっても、書いたものに品位がない。ないはずである。こう書いたら笑われるだろう、ああ云ったら叱《しか》られるだろうと、びくびくして筆を執《と》るから、あの男は腹の中がかたまっておらん、理想が生煮《なまにえ》だ、という弱点が書物の上に見え透《す》くように写っている、したがっていかにも意気地《いくじ》がない。いくら技巧があったって、これじゃ人を引きつけることもできん、いわんや感化をやであります。またいわんや還元的感化をやであります。こんな文芸家を称して閑人と云うのであります。正木君の云われた市気匠気と云うのは、かかる閑人の文芸家に着いて廻るのであります。要するに我々に必要なのは理想である。理想は文に存するものでもない、絵に存するものでもない、理想を有している人間に着いているものである。だからして技巧の力を藉《か》りて理想を実現するのは人格の一部を実現するのである。人格にない事を、ただ句を綴《つづ》り章を繋《つな》いで、上滑りのするようにかきこなしたって、閑人に過ぎません。俗にこれを柄《がら》にないと申します。柄にない事は、やっても閑人でやらなくても閑人だから、やらない方が手数が省けるだけ得になります。ただ新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧は始めてこの人のため至大な用をなすのであります。一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃《ひら》めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡《こんせき》を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神|気魄《きはく》は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完《まっと》うしたるものであります。
[#地付き]――明治四十年四月東京美術学校において述――
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本で、表題に続いて配置されていた講演の日時と場所に関する情報は、ファイル末に地付きで置きました。
入力:柴田卓治
校正:大野晋
2000年4月11日公開
2008年5月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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