《うそ》である。その嘘である理由は今までやって来た分解で御合点《ごがてん》が行ったはずであります。もっとも社会と云うものはいつでも一元では満足しない。物は極《きわ》まれば通ずとかいう諺《ことわざ》の通り、浪漫主義の道徳が行きづまれば自然主義の道徳がだんだん頭を擡《もた》げ、また自然主義の道徳の弊が顕著になって人心がようやく厭気《いやけ》に襲《おそ》われるとまた浪漫主義の道徳が反動として起るのは当然の理であります。歴史は過去を繰返《くりかえ》すと云うのはここの事にほかならんのですが、厳密な意味でいうと、学理的に考えてもまた実際に徴してみても、一遍過ぎ去ったものはけっして繰返されないのです。繰返されるように見えるのは素人《しろうと》だからである。だから今もし小波瀾《しょうはらん》としてこの自然主義の道徳に反抗して起るものがあるならば、それは浪漫派に違いないが、維新前の浪漫派が再び勃興《ぼっこう》する事はとうてい困難である、また駄目である。同じ浪漫派にしても我々現在生活の陥欠を補う新らしい意義を帯びた一種の浪漫的道徳でなければなりません。
 道徳における向後の大勢及び局部の波瀾として目前に起るべき小反動は要するにかくのごとき性質のものであって、道徳と文芸との密接なる関係もまた上説のごとしとすれば、これからわが社会の要する文芸というものもまた同じ方向に同じ意味において発展しなければならないのも、また多言を要せずして明かな話であります。もし活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてよりほかに存在はできないものである、枯れてしまわなければならないのである。人工的に幾ら声を嗄《か》らして天下に呼号してもほとんど無益かと考えます。社会が文芸を生むか、または文芸に生まれるかどっちかはしばらく措《お》いて、いやしくも社会の道徳と切っても切れない縁で結びつけられている以上、倫理面に活動するていの文芸はけっして吾人内心の欲する道徳と乖離《かいり》して栄える訳がない。
 我々人間としてこの世に存在する以上どうもがいても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息する訳には行かない。道徳を離れることができなければ、一見道徳とは没交渉に見える浪漫主義や自然主義の解釈も一考して見る価値がある。この二つの言葉は文学者の専有物ではなくって、あなた方《がた
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