たむ》きが多うございます。大阪へ来て文芸を談ずると云うことの可否は知りません。儲《もう》ける話でもしたら一番よかろうと思っているんですが、「文芸と道徳」では題をお聴きになっただけでも儲かりません。その内容をお聴きになってはなお儲かりません。けれども別に損をするというほどの縁喜《えんぎ》の悪い題でもなかろうと思うのです。もちろん御聴《おきき》になる時間ぐらいは損になりますが、そのくらいな損は不運と諦《あきら》めて辛抱して聴いていただきたい。
昔の道徳と今の道徳と云うものの区別、それからお話をしたいと思いますが――どうも落ちついてやっていられないような気がしてたまらない。その前にちょっとこの題の説明をしますが、「道徳と文芸」とある以上、つまり文芸と道徳との関係に帰着するのだから、道徳の関係しない方面、あるいは部分の文芸と云うものはここに論ずる限りでない。したがって文芸の中《うち》でも道徳の意味を帯びた倫理的の臭味《くさみ》を脱却する事のできない文芸上の述作についてのお話と云ってもよし、文芸と交渉のある道徳のお話と云ってもよいのです。それでまず道徳と云うものについて昔と今の区別からお話を始めてだんだん進行する事に致します。
昔の道徳、これは無論日本での御話ですから昔の道徳といえば維新前の道徳、すなわち徳川氏時代の道徳を指すものでありますが、その昔の道徳はどんなものであるかと云うと、あなた方《がた》も御承知の通り、一口に申しますと、完全な一種の理想的の型を拵《こしら》えて、その型を標準としてその型は吾人が努力の結果実現のできるものとして出立したものであります。だから忠臣でも孝子でももしくは貞女でも、ことごとく完全な模範を前へおいて、我々ごとき至らぬものも意思のいかん、努力のいかんに依っては、この模範通りの事ができるんだといったような教え方、徳義の立て方であったのです。もっとも一概に完全と云いましても、意味の取り方で、いろいろになりますけれども、ここに云うのは仏語《ぶつご》などで使う純一無雑まず混《まじ》り気《け》のないところと見たら差支《さしつかえ》ないでしょう。例えば鉱《あらがね》のように種々な異分子を含んだ自然物でなくって純金と云ったように精錬した忠臣なり孝子なりを意味しております。かく完全な模型を標榜《ひょうぼう》して、それに達し得る念力をもって修養の功を積むべく
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