に書く訳でもないが、とにかくこっちから頼みはしないので、先方から勝手に寄こすくらいの酔興的な閑文字すなわち一種の意味における芸術品なのだから、もし我々の若い時分の気持で書くとすれば、天下の英雄君と我とのみとまで豪がらないにせよ、習俗的に高雅な観念を会釈《えしゃく》なく文字の上に羅列して快よい一種の刺戟《しげき》を自己の倫理性が受けるように詩趣を発揮するのが通例であるが、今例に引こうとする手紙などにはそんな面影《おもかげ》はまるでない。まず門を入ったら胸騒ぎがしたとか、格子《こうし》を開ける時にベルが鳴ってますます驚いたとか、頼むと案内を乞うておきながら取次《とりつぎ》に出て来た下女が不在《るす》だと言ってくれればよかったと沓脱《くつぬぎ》の前で感じたとか、それが御宅ですという一言で急に帰りたい心持に変化したとか、ところへこちらへ上れとまた取次に出て来られてますます恐縮したとか、すべてそういう弱い神経作用がいささかの飾り気もなく出ている。徳義的批判を含んだ言葉で云えば臆病《おくびょう》とか度胸がないとか云うべき弱点を自由に白状している。たかが夏目漱石の所へ来るのにこうビクビクする必要はあるまいとお思いかも知れませんが実際あるのです。しかし私はこれが今の青年だからあるのだと信じます。旧幕時代の文学のどこをどう尋ねてもこんな意味の訪問感想録はけっして見当るまいと信じます。この春でしたがある所に音楽会がありました。その時に私の知った人が演奏台に立って歌をうたいました。私は招待を受けて一番前の列の真中《まんなか》にいて聴いていました。ところがその歌は下手でした。私は音楽を聞く耳も何も持たない素人《しろうと》ではあるがその人のうたいぶりはすこぶる不味《まず》いように感じました。あとでその人に会って感じた通り不味いと云いました。ところがその音楽家はあの演奏台に立った時、自分の足がブルブル顫《ふる》えるのに気が着いたかと私に聞きます。私は気が着かなかったけれども当人自身は足が顫えたと自白する。昔ならたとい足が顫えても顫えないと云い張ったでしょう。何とか負惜みでも言いたいくらいのところへ持って来て、人の気がつきもしないのに自分の口から足がガクガクしたと自白する。それだけ今の人が淡泊になったのじゃないでしょうか。またこれほど淡泊になれるだけ世間の批判が寛大になったのじゃないでしょうか。
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