はいかい》しているうち、どういう機会《はずみ》か自分の手巾《ハンケチ》を足の下《もと》へ落した。混雑の際と見えて、彼は固《もと》より、傍《はた》のものもいっこうそれに気がつかずにいた。するとまだ年の若い美くしい女が一人その手巾を床《ゆか》の上から取り上げて、ダヌンチオの前へ持って来た。彼女はそれをダヌンチオに渡すつもりで、これはあなたのでしょうと聞いた。ダヌンチオはありがとうと答えたが、女の美くしい器量に対してちょっと愛嬌《あいきょう》が必要になったと見えて、「あなたのにして持っていらっしゃい、進上しますから」とあたかも少女の喜びを予想したような事を云った。女は一口の答もせず黙ってその手巾を指先でつまんだまま暖炉《ストーヴ》の傍《そば》まで行っていきなりそれを火の中へ投げ込んだ。ダヌンチオは別にしてその他の席に居合せたものはことごとく微笑を洩《も》らした。
僕はこの話を聞いた時、年の若い茶褐色の髪毛を有《も》った以太利生れの美人を思い浮べるよりも、その代りとしてすぐ千代子の眼と眉《まゆ》を想像した。そうしてそれがもし千代子でなくって妹の百代子であったなら、たとい腹の中はどうあろうとも
前へ
次へ
全462ページ中315ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング