、敬太郎は夢にも思わなかった。
三
敬太郎《けいたろう》は今まで下町出《したまちで》の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶《あいさつ》も有《も》っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩《くず》して、
「そりゃ私《わたし》のために大変都合が好かった」と機嫌《きげん》の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡《しゅんじゅん》した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支《さしつかえ》ない」
田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆《てさげたばこぼん》の抽出《ひきだし》を開けると、その中から角《つの》でできた細長い耳掻《みみかき》を捜《さが》し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒《か》ゆ
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