あと》、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が御者《ぎょしゃ》を乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
玄関へ掛って名刺を出すと、小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ這入《はい》って行った。その声が確かに先刻《さっき》電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿《うしろすがた》を見送りながら厭《いや》な奴《やつ》だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に突立《つった》っていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、御膳《おぜん》などが出て混雑《ごたごた》しているんです」
落ちついて聞きさえすれば満更《まんざら》無理もない言訳なのだが、電話以後この取次が癪《しゃく》に障《さわ》っている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方から先《せん》を越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄《ひょうそく》の合わない捨台詞《すてぜりふ》のような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにその傍《そば》を擦《す》り抜けて表へ出た。
十
彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後《あと》、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永《すなが》と彼の従妹《いとこ》とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継《つ》ぎ合せつつある一部始終《いちぶしじゅう》を御馳走《ごちそう》に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍《わき》に立った彼の頭には、そんな余裕《よゆう》はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所《ありか》をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固《もと》よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一《ちくいち》顛末《てんまつ》を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間《ま》があった。須永の家《うち》の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子《しょうじ》は立て切ったままついに開《あ》かなかった。もっとも彼は体裁家《ていさいや》で、平生からこういう呼び出し方を田舎者《いなかもの》らしいといって厭《いや》がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎《けいたろう》は正式に玄関の格子口《こうしぐち》へかかった。けれども取次に出た仲働《なかばたらき》の口から「午《ひる》少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪《かぜ》を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入《はい》った。と思うと襖《ふすま》の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長《おもなが》の下町風に品《ひん》のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣《えどな》れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一《だいち》どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体《せけんてい》の好い御世辞《おせじ》と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失《な》くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙《からかみ》を締《し》めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉《さくら》を埋《い》けた火鉢《ひばち》を勧めてくれたりするうちに、一時|昂奮《こうふん》した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗《あきたぶき》を一面に大きく摺《す》った襖《ふすま》の模様だの、唐桑
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