しょうこ》なのです。僕は自由な空気と共に往来する事を始めて覚えたのです。こんなつまらない話を一々書く面倒を厭《いと》わなくなったのも、つまりは考えずに観《み》るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います。わずかの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があまり安っぽくって恥ずかしいくらいです。が、僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んでくれた事を切望して已《や》まないのです。白帆《しらほ》が雲のごとく簇《むらが》って淡路島《あわじしま》の前を通ります。反対の側の松山の上に人丸《ひとまる》の社《やしろ》があるそうです。人丸という人はよく知りませんが、閑《ひま》があったらついでだから行って見ようと思います」


 結末

 敬太郎《けいたろう》の冒険は物語に始まって物語に終った。彼の知ろうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼はついにその中に這入《はい》って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の探訪《たんぼう》に過ぎなかった。
 彼は森本の口を通して放浪生活の断片を聞いた。けれどもその断片は輪廓《りんかく》と表面から成る極《きわ》めて浅いものであった。したがって罪のない面白味を、野性の好奇心に充《み》ちた彼の頭に吹き込んだだけである。けれども彼の頭の中の隙間《すきま》が、瓦斯《ガス》に似た冒険|譚《だん》で膨脹《ぼうちょう》した奥に、彼は人間としての森本の面影《おもかげ》を、夢現《ゆめうつつ》のごとく見る事を得た。そうして同じく人間としての彼に、知識以外の同情と反感を与えた。
 彼は田口と云う実際家の口を通して、彼が社会をいかに眺《なが》めているかを少し知った。同時に高等遊民と自称する松本という男からその人生観の一部を聞かされた。彼は親しい社会的関係によって繋《つな》がれていながら、まるで毛色の異《こと》なったこの二人の対照を胸に据《す》えて、幾分か己《おの》れの世間的経験が広くなったような心持がした。けれどもその経験はただ広く面積の上において延びるだけで、深さはさほど増したとも思えなかった。
 彼は千代子という女性《にょしょう》の口を通して幼児の死を聞いた。千代子によって叙《じょ》せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画《え》を見るようなところに、彼の快感を惹《ひ》いた。けれどもその快感のうちには涙が交っていた。苦痛を逃《のが》れるために已《やむ》を得ず流れるよりも、悲哀をできるだけ長く抱《いだ》いていたい意味から出る涙が交《まじ》っていた。彼は独身ものであった。小児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られるのは憐《あわ》れであった。彼は雛祭《ひなまつり》の宵《よい》に生れた女の子の運命を、あたかも御雛様のそれのごとく可憐《かれん》に聞いた。
 彼は須永《すなが》の口から一調子《ひとちょうし》狂った母子《おやこ》の関係を聞かされて驚ろいた。彼も国元に一人の母を有《も》つ身であった。けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果《いんが》に纏綿《てんめん》されていなかった。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑わなかった。同時に親子の間は平凡なものと諦《あき》らめていた。より込み入った親子は、たとえ想像が出来るにしても、いっこう腹にはこたえなかった。それが須永のために深く掘り下げられたような気がした。
 彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そうして彼らは必竟《ひっきょう》夫婦として作られたものか、朋友《ほうゆう》として存在すべきものか、もしくは敵《かたき》として睨《にら》み合うべきものかを疑った。その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を駆《か》って彼を松本に走らしめた。彼は案外にも、松本をただ舶来のパイプを銜《くわ》えて世の中を傍観している男でないと発見した。彼は松本が須永に対してどんな考でどういう所置を取ったかを委《くわ》しく聞いた。そうして松本のそういう所置を取らなければならなくなった事情も審《つまび》らかにした。
 顧《かえり》みると、彼が学校を出て、始めて実際の世の中に接触して見たいと志ざしてから今日《こんにち》までの経歴は、単に人の話をそこここと聞き廻って歩いただけである。耳から知識なり感情なりを伝えられなかった場合は、小川町の停留所で洋杖《ステッキ》を大事そうに突いて、電車から下りる霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着た男が若い女といっしょに洋食屋に這入る後《あと》を跟《つ》けたくらいのものである。それも今になって記憶の台に載《の》せて眺《なが》めると、ほとんど冒険とも探検とも名づけよう
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