う》するほどの物数奇《ものずき》も今の世にはありませんからね。第一|傍《はた》がそうさせないから大丈夫です」
敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど常調《じょうちょう》以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえ抑《おさ》えたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
「だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭々《あきあき》してしまった」と投げ出すように云った。すると森本は比較的|厳粛《げんしゅく》な顔をして、
「あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです」と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの御籤《おみくじ》めいた言葉がさほどの意義を齎《もたら》さなかった。二人は少しの間|煙草《たばこ》を吹かして黙っていた。
「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もう厭《いや》になったから近々《きんきん》罷《や》めようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、他《ひと》の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を易《か》えて、世間話を快活に十分ほどした後《あと》で、「いやどうも御馳走《ごちそう》でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を有《も》たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど稀《まれ》であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒襟《くろえり》の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟開《えりあき》の広い新調の背広《せびろ》を着て、妙な洋杖《ステッキ》を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘入《かさいれ》に入れてあると、ははあ先生今日は宅《うち》にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の門《かど》を出入《でいり》した。するとその洋杖《ステッキ》がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。
十
一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎《けいたろう》はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。固《もと》より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を相《そう》して、何でも停車場《ステーション》の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌日《あした》は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
しまいに宿の神《かみ》さんが来て、森本さんから何か御音信《おたより》がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を梟《ふくろ》のような丸い眼の中《うち》に漂《ただ》よわせて出て行った。それから一週間ほど経《た》っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を抱《いだ》き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出花《でばな》なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の計《はかりごと》のために、好奇家の権利を放棄したのである。
すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障子《しょうじ》を開けて這入《はい》って来た。彼は腰から古めかしい煙草入《たばこいれ》を取り出して、その筒《つつ》を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙管《きせる》に刻草《きざみ》を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から迸《ほとば》しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判然《はっきり》向うか
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