》ができていた。母もその時にはただ遠くから匂わせるだけでなくて、自分の希望に正当の形式を与える事を忘れなかった。僕は何心なく従妹《いとこ》は血属だから厭《いや》だと答えた。母は千代子の生れた時くれろと頼んでおいたのだから貰ったらいいだろうと云って僕を驚ろかした。なぜそんな事を頼んだのかと聞くと、なぜでも私《わたし》の好きな子で、御前も嫌《きら》うはずがないからだと、赤ん坊には応用の利《き》かないような挨拶《あいさつ》をして僕を弱らせた。だんだんそこを押して見ると、しまいに涙ぐんで、実は御前のためではない、全く私のために頼むのだと云う。しかもどうしてそれが母のためになるのか、その理由はいくら聞いても語らない。最後に何でもかでも千代子は厭《いや》かと聞かれた。僕は厭でも何でもないと答えた。しかし当人も僕のところへ来る気はなし、田口の叔父も叔母も僕にくれたくはないのだから、そんな事を申し込むのは止した方が好い、先方で迷惑するだけだからと教えた。母は約束だから迷惑しても構わない、また迷惑するはずがないと主張して、昔《むか》し田口が父の世話になったり厄介《やっかい》になったりした例を数え挙げた。僕はやむを得ないからこの問題は卒業するまで解決を着けずにおこうと云い出した。母は不安の裏《うち》に一縷《いちる》の望を現わした顔色をして、もう一遍とくと考えて見てくれと頼んだ。
 こういう事情で、今まで母一人で懐《ふところ》に抱《だ》いていた問題を、その後《のち》は僕も抱かなければならなくなった。田口はまた田口流に、同じ問題を孵《かえ》しつつあるのではなかろうか。たとい千代子をほかへ縁づけるにしても、いざと云う場合には一応こちらの承諾を得る必要があるとすれば、叔父も気がかりに違いない。

        七

 僕は不安になった。母の顔を見るたびに、彼女を欺《あざ》むいてその日その日を姑息《こそく》に送っているような気がしてすまなかった。一頃《ひところ》は思い直してでき得るならば母の希望通り千代子を貰《もら》ってやりたいとも考えた。僕はそのためにわざわざ用もない田口の家へ遊びに行ってそれとなく叔父や叔母の様子を見た。彼らは僕の母の肉薄に応ずる準備としてまえもって僕を疎《うと》んずるような素振《そぶり》を口にも挙動にもけっして示さなかった。彼らはそれほど浅薄なまた不親切な人間ではなかったのである。けれども彼らの娘の未来の夫として、僕が彼らの眼にいかに憐《あわ》れむべく映じていたかは、遠き前から僕の見抜いていたところと、ちっとも変化を来さないばかりか、近頃になってますますその傾《かたむき》が著るしくなるように思われた。彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白《あおしろ》い顔色とを婿《むこ》として肯《うけ》がわないつもりらしかった。もっとも僕は神経の鋭どく動く性質《たち》だから、物を誇大に考え過したり、要《い》らぬ僻《ひが》みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委《くわ》しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は憚《はば》かりたい。ただ一言《いちごん》で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。が、その後《ご》彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ惚《ぼ》けかかった空《むな》しい義理の抜殻《ぬけがら》を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば差支《さしつかえ》ないのである。
 僕と彼らとはあらゆる人の結婚問題についても多くを語る機会を持たなかった。ただある時叔母と僕との間にこんな会話が取り換わされた。
「市《いっ》さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんはとうから心配しているようですよ」
「好いのがあったら母に知らしてやって下さい」
「市さんにはおとなしくって優《やさ》しい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」
「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も来手《きて》はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自《みずか》ら嘲《あざ》けるごとくこう云った時、今まで向うの隅《すみ》で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「あたし行って上げましょうか」
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。僕は低い叔母の声のうちに、窘《たし》なめるようなまた怖《おそ》れるような一種の響を聞いた。千代子はただからからと面白そうに笑っただけであった。その時百代子も傍《そば》にいた。これは姉の言葉を聞いて微笑し
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