「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気《なまいき》云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこの方《かた》が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭《いや》よまたこないだみたいに、西洋|煙草《たばこ》の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点《とも》っていた。台所ではすでに夕飯《ゆうめし》の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪《ガスしちりん》が二つとも忙がしく青い※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小《ち》さい朱塗の椀《わん》と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載《の》せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家《うち》のものの着更《きがえ》をするために多く用いられる室《へや》なので、箪笥《たんす》が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据《す》えてあった。千代子はその姿見の前に玩具《おもちゃ》のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠《おまちどお》さま」
 千代子が粥《かゆ》を一匙《ひとさじ》ずつ掬《すく》って口へ入れてやるたびに、宵子は旨《おい》しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強《し》いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念《たんねん》に匙の持ち方を教えた。宵子は固《もと》より極《きわ》めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供《おそなえ》のような平たい頭を傾《かし》げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝《ひざ》の前に俯伏《うつぶせ》になった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子を抱《だ》き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応《てごたえ》がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。

        四

 宵子《よいこ》はうとうと寝入《ねい》った人のように眼を半分閉じて口を半分|開《あ》けたまま千代子の膝《ひざ》の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度|叩《たた》いたが、何の効目《ききめ》もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
 母は驚ろいて箸《はし》と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入《はい》って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向《あおむけ》にして見ると、唇《くちびる》にもう薄く紫の色が注《さ》していた。口へ掌《てのひら》を当てがっても、呼息《いき》の通う音はしなかった。母は呼吸《こきゅう》の塞《つま》ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭《ぬれてぬぐい》を持って来さした。それを宵子の額に載《の》せた時、「脈《みゃく》はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸《てくび》を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼《あお》い顔をして泣き出した。母は茫然《ぼうぜん》とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人《よつたり》とも客間の方へ馳《か》け出した。その足音が廊下の端《はずれ》で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽《お》い被《かぶ》さるように細君と千代子の上から宵子を覗《のぞ》き込んだが、一目見ると急に眉《まゆ》を寄せた。
「医者は……」
 医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能《ききめ》もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇《くちびる》を洩《も》れた。そうして絶望を怖《おそ》れる怪しい光に充《み》ちた三人の眼が一度に医者の上に据《す》えられた。鏡を出して瞳孔《どうこう》を眺めていた医者は、この時宵子の裾《すそ》を捲《まく》って肛門《こうもん
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