し相手を怒《おこ》らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆《あおえんどう》が運ばれる時分には、女もとうとう我《が》を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減《いいかげん》に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会《はずみ》に小耳に挟《はさ》んでおきたかったが、いよいよ話が纏《まと》まらないとなると、男女《なんにょ》の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
敬太郎はちょっと振り向いて後《うしろ》が見たくなった。その時|階段《はしごだん》を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上《あが》って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿《は》いた軍人であった。そうして床《ゆか》の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の室《へや》へ案内された。この物音が例の男と女の会話を攪《か》き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊《たんぱく》に自分の欲しいというものの名を判切《はっきり》云ってくれないかを恨《うら》んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度《こんだ》でいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッ嬉《うれ》しい」
敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎《つつ》しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上《あが》り口《くち》の方から、給仕《ボーイ》が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更《か》えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「妾《あたし》もうたくさん」
女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと逼《せま》ったのは珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》か何からしい。男はこういう事に精通しているという口調《くちょう》で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家《こうずか》の嬉《うれ》しがる知識に過ぎなかった。練物《ねりもの》で作ったのへ指先の紋《もん》を押しつけたりして、時々|旨《うま》くごまかした贋物《がんぶつ》があるが、それは手障《てざわ》りがどこかざらざらするから、本当の古渡《こわた》りとは直《すぐ》区別できるなどと叮嚀《ていねい》に女に教えていた。敬太郎は前後《あとさき》を綜合《すべあ》わして、何でもよほど貴《たっ》とい、また大変珍らしい、今時そう容易《たやす》くは手に入らない時代のついた珠《たま》を、女が男から貰《もら》う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何《なん》にする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」
三十四
しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物《くだもの》にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎《けいたろう》に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た後《あと》の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。後《おく》れて席を立つにしても、巻煙草《まきたばこ》を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓《ざっとう》と暗闇《くらやみ》の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで後《あと》から喰付《くっつ》いて行こ
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