ているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに鋳出《いだ》された模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。袋は能装束《のうしょうぞく》の切れ端か、懸物《かけもの》の表具の余りで拵《こし》らえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦《てずれ》と時代のため、派手な色を全く失っていた。
婆さんは年寄に似合わない白い繊麗《きゃしゃ》な指で、九枚の文銭を三枚ずつ三列《みけた》に並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ一生涯《いっしょうがい》の事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」
婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。その後《あと》で胸算用《むなざんよう》でもする案排《あんばい》しきで、指を折って見たり、ただ考《かん》がえたりしていたが、やがてまた綺麗《きれい》な指で例の文銭を新らしく並べ更《か》えた。敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。
十八
婆さんはしばらく手を膝《ひざ》の上に載《の》せて、何事も云わずに古い銭《ぜに》の面《おもて》をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快《はっきり》纏《まと》まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎《けいたろう》の顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出《おで》になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終《すえしじゅう》御為《おため》ですから」
婆さんは一区限《ひとくぎり》つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を窺《うかが》った。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌《しゃべ》らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言《いちげん》に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟《しげき》に応じて見たくなった。
「進んでも失敗《しくじ》るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意《わざ》とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最《もう》少し先まで御出《おで》なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込《ひっこ》む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
婆さんはまた黙って文銭《ぶんせん》の上を眺《なが》めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同《おん》なじですね」と答えた。そうして先刻《さっき》裁縫《しごと》をしていた時に散らばした糸屑《いとくず》を拾って、その中から紺《こん》と赤の絹糸のかなり長いのを択《よ》り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗《きれい》に縒《よ》り始めた。敬太郎はただ手持無沙汰《てもちぶさた》の徒事《いたずら》とばかり思って、別段意にも留《とど》めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒《よ》り上げて、文銭の上に載《の》せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手《はで》な赤と地味な紺《こん》が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆《か》け出してやり損《そこ》ない勝《がち》のものですが、あなたのは今のところこの縒糸《よりいと》みたように丁度《ちょうど》好い具合に、いっしょに絡《から》まり合っているようですから御仕合せです」
絹糸の喩《たとえ》は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉《うれ》しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道《じみち》を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑《の》み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言《いちごん》で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切《せつ》に思いつめていた訳でもなかっ
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