ると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の悪戯《いたずら》を話した上、「担《かつ》いだ代りに今夜は僕が奢《おご》るよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう飄気《ひょうげ》た真似《まね》をする男なんでございますから」と須永の母も話した後《あと》でおかしそうに笑った。敬太郎はあの自働車はまさか悪戯《いたずら》じゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。

        十四

 自動車事件以後|敬太郎《けいたろう》はもう田口の世話になる見込はないものと諦《あき》らめた。それと同時に須永《すなが》の従弟《いとこ》と仮定された例の後姿《うしろすがた》の正体も、ほぼ発端《ほったん》の入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた煮切《にえき》らないような不愉快があった。彼は今日《こんにち》まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を有《も》っていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、貫《つら》ぬき終《おお》せた試《ためし》がなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、向《むこう》で引き摺《ず》り出してくれたのだから、中途で動けなくなった間怠《まだる》さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の晴々《せいせい》した心持も知らなかった。
 彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自《みず》から進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに透《す》き徹《とお》るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮《あざや》かに見えながら、自分だけ硝子張《ガラスばり》の箱の中に入れられて、外の物と直《じか》に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息《ちっそく》するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹《かか》っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日《こんにち》まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託《くったく》しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張《きば》る事さえ覚えれば、当っても外《はず》れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日《こんにち》までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
 敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けの後《あと》の祭のような気がして、何という当《あて》もなくまた三四日《さんよっか》ぶらぶらと暮した。その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも薬缶頭《やかんあたま》を攫《つか》むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。彼は碁《ご》を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折《はらんきょくせつ》のある碁が見たいと思った。
 すると直《すぐ》須永と後姿の女との関係が想像された。もともと頭の中でむやみに色沢《つや》を着けて奥行《おくゆき》のあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところが他《ひと》の事を余計なおせっかいだと、自分で自分を嘲《あざ》けりながら、ああ馬鹿らしいと思う後《あと》から、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいと閃《ひら》めいて来るのである。そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない浪漫的《ロマンチック》な或物にぶつかるかも知れないと考え出す。すると田口の玄関で怒《おこ》ったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
 職業についても、あんな些細《ささい》な行違《ゆきちがい》のために愛想《あいそ》づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。あれでできるともできないとも、まだ方《かた》のつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。そうして好んで煮《
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