うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいた膳《ぜん》が、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘に急《せ》き立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では一昨日《おととい》の晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に無雑作《むぞうさ》な取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは愛嬌《あいきょう》のある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰を曲《かが》めて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども先刻《さっき》電話の取次に出たもののように、五分と経《た》たないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。その癖《くせ》自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない性質《たち》であった。
小川町の角で、斜《はす》に須永《すなが》の家《うち》へ曲《まが》る横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に日蔭《ひかげ》から日向《ひなた》へ想像を移した。今日も美くしい須永の従妹《いとこ》のいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、億劫《おっくう》な手数《てかず》をかけて、好い顔もしない爺《じい》さんに、衣食の途《みち》を授けて下さいと泣《なき》つきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取っては遥《はる》かに麗《うらら》かであったからである。彼は須永の従妹《いとこ》と田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で先方《さき》の人品は判然《はっきり》分らなかったけれども、眼鼻だちの輪廓《りんかく》だけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目《よめ》にも疑《うたがい》なく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、器量《きりょう》はあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような日向日蔭《ひなたひかげ》の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対して抱《いだ》いていたのである。それを互違にくり返した後《
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