ガラスど》を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物《せともの》の傘入《かさいれ》の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入《でいり》の際視線を逸《そ》らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍《そば》を通るのが苦になってきて、極《きわ》めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟《たた》られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に溯《さかの》ぼる嫌疑《けんぎ》を恐れて、森本の居所もまたその言伝《ことづて》も主人夫婦に告げられないという弱味を有《も》っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇《くもり》もかけなかった。記念《かたみ》として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他《ひと》の好意を空《むなし》くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死《じに》という終りを告げるのだろう。)その憐《あわ》れな最期《さいご》を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって刻《きざ》まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開《あ》いたまま喰付《くっつ》いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟《おおげさ》ではあるが一種の因果《いんが》のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計《かっけい》とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災《わざわい》されていなかったのである。
今日も洋杖《ステッキ》は依然とし
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