っていた。

        三

 すると二階の障子《しょうじ》がすうと開《あ》いて、青い色の硝子瓶《ガラスびん》を提《さ》げた須永《すなが》の姿が不意に縁側《えんがわ》へ現われたので敬太郎《けいたろう》はちょっと吃驚《びっくり》した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉《のど》の周囲《まわり》に白いフラネルを捲《ま》いていた。手に提《さ》げたのは含嗽剤《がんそうざい》らしい。敬太郎は上を向いて、風邪《かぜ》を引いたのかとか何とか二三言葉を換《か》わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚《さと》らない人のごとく、軽く首肯《うなず》いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段《はしごだん》を上《あが》る時、敬太郎は奥の部屋で微《かす》かに衣摺《きぬずれ》の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞《たく》ましくしたという疚《や》ましさもあり、また面《めん》と向ってすぐとは云い悪《にく》い皮肉な覘《ねらい》を付けた自覚もあるので、今しがた君の家《うち》へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧《お》し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼《かね》て須永から聞いている内幸町《うちさいわいちょう》の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目《まじめ》に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合《つれあい》で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有《も》っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉《か》りてどうしようという料簡《りょうけん》もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余《あんまり》進まないか
前へ 次へ
全231ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング