るためではなかろうかという疑も起った。僕は突然極端の出来事を予想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。
「おれもいっしょに行こうか」
「叔父さんといっしょじゃ」と市蔵が苦笑した。
「いけないかい」
「平生《ふだん》ならこっちから誘っても行って貰いたいんだが、何しろいつどこへ立つんだか分らない、云わば気の向きしだい予定の狂う旅行だから御気の毒でね。それに僕の方でもあなたがいると束縛があって面白くないから……」
「じゃ止《よ》そう」と僕はすぐ申し出を撤回した。

        九

 市蔵が帰った後《あと》でも、しばらくは彼の事が変に気にかかった。暗い秘密を彼の頭に判で押した以上、それから出る一切の責任は、当然僕が背負《しょ》って立たなければならない気がしたからである。僕は姉に会って、彼女の様子を見もし、また市蔵の近況を聞きもしたくなった。茶の間にいた妻《さい》を呼んで、相談かたがた理由《わけ》を話すと、存外物に驚ろかない妻は、あなたがあんまり余計なおしゃべりをなさるからですよと云って、始めはほとんど取り合わなかったが、しまいに、なんで市《いっ》さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、あなたよりよっぽど分別のある人ですものと、独《ひと》りで受合っていた。
「すると市蔵の方で、かえっておれの事を心配している訳になるんだね」
「そうですとも、誰だってあなたの懐手《ふところで》ばかりして、舶来のパイプを銜《くわ》えているところを見れば、心配になりますわ」
 そのうち子供が学校から帰って来て、家《うち》の中が急に賑《にぎ》やかになったので、市蔵の事はつい忘れたぎり、夕方までとうとう思い出す暇がなかった。そこへ姉が自分の方から突然尋ねて来た時は、僕も覚えず冷《ひや》りとした。
 姉はいつもの通り、家族の集まっている真中に坐って、無沙汰《ぶさた》の詫《わび》やら、時候の挨拶《あいさつ》やらを長々しく妻《さい》と交換していた。僕もそこに座を占めたまま動く機会を失った。
「市蔵が明日《あす》から旅行するって云うじゃありませんか」と僕は好い加減な時分に聞き出した。
「それについてね……」と姉はやや真面目《まじめ》になって僕の顔を見た。僕は姉の言葉を皆まで聞かずに、「なに行きたいなら行かしておやんなさい。試験で頭をさんざん使った後《あと》だもの。少しは楽もさせないと身体《からだ》の
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