ねと云って澄ましていた。僕はそれでも不安心だったから、ある日一時間の夕《ゆうべ》を僕と会食するために割《さ》かせて、彼の家の近所の洋食店で共に晩餐《ばんさん》を食いながら、ひそかに彼の様子を窺《うかが》った。彼は平生の通り落ちついていた。なに試験なんかどうにかこうにかやっつけまさあと受合ったところに、満更《まんざら》の虚勢も見えなかった。大丈夫かいと念を押した時、彼は急に情《なさけ》なそうな顔をして、人間の頭は思ったより堅固にできているもんですね、実は僕自身も怖《こわ》くってたまらないんですが、不思議にまだ壊れません、この様子ならまだ当分は使えるでしょうと云った。冗談《じょうだん》らしくもあり、また真面目《まじめ》らしくもあるこの言葉が、妙に憐《あわ》れ深い感じを僕に与えた。

        八

 若葉の時節が過ぎて、湯上《ゆあが》りの単衣《ひとえ》の胸に、団扇《うちわ》の風を入れたく思うある日、市蔵がまたふらりとやって来た。彼の顔を見るや否《いな》や僕が第一にかけた言葉は、試験はどうだったいという一語であった。彼は昨日《きのう》ようやくすんだと答えた。そうして明日《あす》からちょっと旅行して来るつもりだから暇乞《いとまごい》に来たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑ってまた多少の不安を感じた。彼は京都附近から須磨《すま》明石《あかし》を経て、ことに因《よ》ると、広島|辺《へん》まで行きたいという希望を述べた。僕はその旅行の比較的|大袈裟《おおげさ》なのに驚ろいた。及第とさえきまっていればそれでも好かろうがと間接に不賛成の意を仄《ほの》めかして見ると、彼は試験の結果などには存外冷淡な挨拶《あいさつ》をした。そんな事に気を遣《つか》う叔父さんこそ平生にも似合わしからんじゃありませんかと云って、ほとんど相手にならなかった。話しているうちに、僕は彼の思い立《たち》が及落の成績に関係のない別方面の動機から萌《きざ》しているという事を発見した。
「実はあの事件以来妙に頭を使うので、近頃では落ちついて書斎に坐《すわ》っている事が困難になりましてね。どうしても旅行が必要なんですから、まあ試験を中途で已《や》めなかったのが感心だぐらいに賞《ほ》めて許して下さい」
「そりゃ御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも差支《さしつかえ》はないさ。考えて見
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