書き出して自分と裂き棄《す》てたようなこの小説の続きをいろいろに想像した。そこには海があり、月があり、磯《いそ》があった。若い男の影と若い女の影があった。始めは男が激《げき》して女が泣いた。後《あと》では女が激して男が宥《なだ》めた。ついには二人手を引き合って音のしない砂の上を歩いた。あるいは額《がく》があり、畳があり、涼しい風が吹いた。二人の若い男がそこで意味のない口論をした。それがだんだん熱い血を頬に呼び寄せて、ついには二人共自分の人格にかかわるような言葉使いをしなければすまなくなった。果《はて》は立ち上って拳《こぶし》を揮《ふる》い合った。あるいは……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に描《えが》かれた。僕はそのいずれをも甞《な》め試ろみる機会を失ってかえって自分のために喜んだ。人は僕を老人みたようだと云って嘲《あざ》けるだろう。もし詩に訴えてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても満足である。けれどももし詩に涸《か》れて乾《から》びたのが老人なら、僕はこの品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めてもがいているのである。
二十六
僕は東京へ帰ってからの気分を想像して、あるいは刺戟《しげき》を眼の前に控えた鎌倉にいるよりもかえって焦躁《いら》つきはしまいかと心配した。そうして相手もなく一人焦躁つく事のはなはだしい苦痛をいたずらに胸の中《うち》に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に外《そ》れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落ちつきと冷静と無頓着《むとんじゃく》とを、比較的容易に、淋《さみ》しいわが二階の上に齎《もた》らし帰る事ができた。僕は新らしい匂《におい》のする蚊帳《かや》を座敷いっぱいに釣って、軒に鳴る風鈴《ふうりん》の音を楽しんで寝た。宵《よい》には町へ出て草花の鉢《はち》を抱《かか》えながら格子《こうし》を開ける事もあった。母がいないので、すべての世話は作《さく》という小間使がした。鎌倉から帰って、始めてわが家の膳《ぜん》に向った時、給仕のために黒い丸盆を膝《ひざ》の上に置いて、僕の前に畏《かし》こまった作の姿を見た僕は今更《いまさら》のように彼女と鎌倉にいる姉妹《きょうだい》との相違を感じた。作は固《もと》より好い器量の女でも何でもなかった。けれども僕の前に出て畏こまる事よりほかに何も知っていない彼女の姿が、僕にはいか
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