》になった」
須永の話
一
敬太郎《けいたろう》は須永《すなが》の門前で後姿《うしろすがた》の女を見て以来、この二人を結びつける縁《えん》の糸を常に想像した。その糸には一種夢のような匂《におい》があるので、二人を眼の前に、須永としまた千代子として眺《なが》める時には、かえってどこかへ消えてしまう事が多かった。けれども彼らが普通の人間として敬太郎の肉眼に現実の刺戟《しげき》を与えない折々には、失なわれた糸がまた二人の中を離すべからざる因果《いんが》のごとくに繋《つな》いだ。田口の家《うち》へ出入《でいり》するようになってからも、須永と千代子の関係については、一口《ひとくち》でさえ誰からも聞いた事はなし、また二人の様子を直《じか》に観察しても尋常の従兄弟《いとこ》以上に何物も仄《ほの》めいていなかったには違ないが、こういう当初からの聯想《れんそう》に支配されて、彼の頭のどこかに、二人を常に一対《いっつい》の男女《なんにょ》として認める傾きを有《も》っていた。女の連添《つれそ》わない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を損《そこ》なった片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼らを頭のうちでかように組み合わせたのは、まだ片輪の境遇にまごついている二人に、自然が生みつけた通りの資格を早く与えてやりたいという道義心の要求から起ったのかも知れなかった。
それはこむずかしい理窟《りくつ》だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を捻《ひね》ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の佐伯《さえき》から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の纏《まと》まらない先から、奥の委《くわ》しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ漠然《ばくぜん》とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも明瞭《めいりょう》な答はでき悪《にく》いんですが
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