え。よっぽど不景気なんだね。もっとも明治も四十何年というんだから、そのはずには違ないが」
森本はここまで来て少し首を傾《かし》げて、自分の哲理を自分で噛《か》みしめるような素振《そぶり》をした。敬太郎は相手の様子を見て、それほど滑稽《こっけい》とも思わなかったが、心の内で、この男は心得があってわざとこんな言葉遣《ことばづかい》をするのだろうか、または無学の結果こうよりほか言い現わす手段《てだて》を知らないのだろうかと考えた。すると森本が傾《かし》げた首を急に竪《たて》に直した。
「どうです、御厭《おいや》でなきゃ、鉄道の方へでも御出《おで》なすっちゃ。何なら話して見ましょうか」
いかな浪漫的《ロマンチック》な敬太郎もこの男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかった。けれどもさも軽々と云って退《の》ける彼の愛嬌《あいきょう》を、翻弄《ほんろう》と解釈するほどの僻《ひがみ》ももたなかった。拠処《よんどころ》なく苦笑しながら、下女を呼んで、
「森本さんの御膳《おぜん》もここへ持って来るんだ」と云いつけて、酒を命じた。
七
森本は近頃|身体《からだ》のために酒を慎しんでいると断わりながら、注《つ》いでやりさえすれば、すぐ猪口《ちょく》を空《から》にした。しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静が熱《ほて》ってくる、気楽はしだいしだいに膨脹《ぼうちょう》するように見えた。自分でも「こうなりゃ併呑自若《へいどんじじゃく》たるもんだ。明日《あした》免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、盃《さかずき》に唇《くちびる》を付けて、付合《つきあ》っているのを見て、彼は、
「田川さん、あなた本当に飲《い》けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない癖《くせ》に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去を碌《ろく》でなしのように蹴《け》なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、後光《ごこう》が逆《ぎゃく》に射すとでも評すべき態度で、気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を吐《は》き始めた。そ
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