変えようとする努力と、これを緒口《いとくち》に、革《かわ》の手袋を穿《は》めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺《なが》めていた。もしこれが田口であったなら手際《てぎわ》よく相手を打ち据《す》える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮《あざ》やかな腕を有《も》っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴《さ》えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図《はか》らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」

        十一

 二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯《とし》の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心《かんじん》の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎《けいたろう》の血の中まで這入《はい》り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢《いきおい》をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹《とお》らないらしかった。
 こんな縁遠い話をしている中《うち》で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜《ロシヤ》の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達《ちょうたつ》のため細君同伴で亜米利加《アメリカ》へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎《かんげい》やらに忙殺《ぼうさつ》されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴《つ》れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露《ばくろ》した
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