うちで、この松本という男は世に著《あら》われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟《りくつ》をちらちらと閃《ひら》めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕《つら》まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵《のの》しった。
「第一《だいち》ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考《かんがえ》のできる閑《ひま》がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年《ねん》が年中《ねんじゅう》摺鉢《すりばち》の中で、擂木《すりこぎ》に攪《か》き廻されてる味噌《みそ》見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
 敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体《あくたい》を吐《つ》くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫《ごう》も毒々しいところだの、小悪《こにく》らしい点だのの見えない事であった。彼の罵《のの》しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具《そな》えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟《しげき》を受けるだけであった。
「それでいて、碁《ご》を打つ、謡《うたい》を謡《うた》う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞《へたくそ》なんですが」
「それが余裕《よゆう》のある証拠《しょうこ》じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日《きのう》雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民《こうとうゆうみん》でないからです。いくら他《ひと》の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」

        十

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢《ひばち》の縁《ふち》へ両肱《りょうひじ》を掛けて、その一方の先にある拳骨《げんこつ》を顎《あご》の支えに
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