って昨夕《ゆうべ》人殺しをするための客を出刃《でば》ぐるみ乗せていっさんに馳《か》けたのかも知れないと考えたり、または追手《おって》の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を幌《ほろ》の中に隠して、どこかの停車場《ステーション》へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で怖《こわ》がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会《であ》って然《しか》るべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔に飽《あ》き果てた。毎日食う下宿の菜《さい》にも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方が纏《まと》まるとかすれば、まだ衣食の途《みち》以外に、幾分かの刺戟《しげき》が得られるのだけれども、両方共二三日前に当分|望《のぞみ》がないと判然して見ると、ますます眼前の平凡が自分の無能力と密切な関係でもあるかのように思われて、ひどくぼんやりしてしまった。それで糊口《ここう》のための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばら銭《せん》を探《さが》して歩くような長閑《のどか》な気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって、昨夕はさほど好きでもない麦酒《ビール》を大いに飲んで寝たのである。
こんな時に、非凡の経験に富んだ平凡人とでも評しなければ評しようのない森本の顔を見るのは、敬太郎にとってすでに一種の興奮であった。巻紙を買う御供《おとも》までして彼を自分の室《へや》へ連れ込んだのはこれがためである。
六
森本は窓際《まどぎわ》へ坐ってしばらく下の方を眺《なが》めていた。
「あなたの室《へや》から見た景色《けしき》は相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空の裾《すそ》に、色づいた樹が、所々|暖《あっ》たかく塊《かた》まっている間から赤い煉瓦《れんが》が見える様子は、たしかに画《え》になりそうですね」
「そ
前へ
次へ
全231ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング