し合せたように敬太郎の方を顧《かえり》みた。固《もと》より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔《つば》をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫《な》でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当《けんとう》を眺《なが》めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗《わ》びた。
 間《ま》もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後《あと》から這入《はい》って、嫌疑《けんぎ》を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾《すそ》を踏まえないばかりに引き摺《ず》って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直《すぐ》続くと思った男は、案外|上《あが》る気色《けしき》もなく、足を揃《そろ》えたまま、両手を外套《がいとう》の隠袋《かくし》に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託《いたく》されたのは女と関係のない黒い中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。

        三十六

 女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入《はい》ってしまった。冬の夜《よ》の事だから、窓硝子《まどガラス》はことごとく締《し》め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌《あいきょう》も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶《あいさつ》の交換《やりとり》がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方《かた》へ運び去った。男はこの時口に銜《くわ》えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋《とうぶつや》の前でとまった。そこは敬太郎《けいたろう》が人に突き当られて、竹の洋杖《ステッキ》を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の後《あと》を見え隠れにここまで跟《つ》いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾
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