。いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。酔興《すいきょう》に述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。夫丈《それだ》けではない。教える為め、又は修養の為め書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱に陥《おちい》ったのである。
 新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩《べいえん》の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるとなと云ってもやめて仕舞《しま》う。休《や》めた翌日から急に脊中《せなか》が軽くなって、肺臓に未曾有《みぞう》の多量な空気が這入《はい》って来た。
 学校をやめてから、京都へ遊びに行った。其地で故旧と会して、野に山に寺に社に、いずれも教場よりは愉快であった。鶯《うぐいす》は身を逆《さかし》まにして初音《はつね》を張る。余は心を空にして四年来の塵《ちり》を肺の奥から吐き出した。是《これ》も新聞屋になった御蔭《おかげ》である。
 人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉《うれ》しき義務である。



底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房 
   1972(昭和47)年1月10日第1刷発行
初出:「朝日新聞」
   1907(明治40)年5月3日
入力:Nana ohbe
校正:米田進
2002年5月10日作成
2003年5月25日修正
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