いつ迄《まで》も噛《かじ》り付き、獅噛《しが》みつき、死んでも離れない積《つもり》でもあった。所へ突然朝日新聞から入社せぬかと云う相談を受けた。担任の仕事はと聞くと只《ただ》文芸に関する作物を適宜《てきぎ》の量に適宜の時に供給すればよいとの事である。文芸上の述作を生命とする余にとって是程《これほど》難有《ありがた》い事はない、是程心持ちのよい待遇はない、是程名誉な職業はない、成功するか、しないか抔《など》と考えて居られるものじゃない。博士や教授や勅任官|抔《など》の事を念頭にかけて、うんうん、きゅうきゅう云っていられるものじゃない。
 大学で講義をするときは、いつでも犬が吠《ほ》えて不愉快であった。余の講義のまずかったのも半分は此犬の為めである。学力が足らないからだ抔《など》とは決して思わない。学生には御気の毒であるが、全く犬の所為《せい》だから、不平は其方《そちら》へ持って行って頂きたい。
 大学で一番心持ちの善《よ》かったのは図書館の閲覧室で新着の雑誌|抔《など》を見る時であった。然し多忙で思う様に之《これ》を利用する事が出来なかったのは残念|至極《しごく》である。しかも余が閲覧室へ這入《はい》ると隣室に居る館員が、無暗《むやみ》に大きな声で話をする、笑う、ふざける。清興を妨げる事は莫大《ばくだい》であった。ある時余は坪井学長に書面を奉《たてまつっ》て、恐れながら御成敗を願った。学長は取り合われなかった。余の講義のまずかったのは半分は是《これ》が為めである。学生には御気の毒だが、図書館と学長がわるいのだから、不平があるなら其方《そっち》へ持って行って貰いたい。余の学力が足らんのだと思われては甚《はなは》だ迷惑である。
 新聞の方では社へ出る必要はないと云う。毎日書斎で用事をすれば夫《それ》で済むのである。余の居宅の近所にも犬は大分居る、図書館員の様に騒ぐものも出て来るに相違ない。然しそれは朝日新聞とは何等の関係もない事だ。いくら不愉快でも、妨害になっても、新聞に対しては面白く仕事が出来る。雇人が雇主に対して面白く仕事が出来れば、是が真正の結構と云うものである。
 大学では講師として年俸八百円を頂戴《ちょうだい》していた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底《とうてい》暮せない。仕方がないから他に二三軒の学校を馳《かけ》あるいて、漸《ようや》く其日を送って居た
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