けた。出臍《でべそ》の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥《くしゃみ》を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉《はくふよう》が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向《むこう》では阿蘇《あそ》の山がごううごううと遠くながら鳴っている。
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。
三
「姉さん、この人は肥《ふと》ってるだろう」
「だいぶん肥《こ》えていなはります」
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理《しょうじんりょうり》じゃ、あした、御山《おやま》へ登れそうもないな」
「また御馳走《ごちそう》を食いたがる」
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」
「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉《ゆば》に、椎茸《しいたけ》に、芋《いも》に、豆腐、いろいろあるじゃないか」
「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。昨日《きのう》は饂飩《うどん》ばかり食わせられる。きょうは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」
「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味《びみ》だ」
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴《さかな》は何もないのかい」
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも辟易《へきえき》だな」
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って御出《おいで》。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然《たいぜん》たる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても好《い》い。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情《なさけ》ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶《あいさつ》をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿《えびす》ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎《びん》に這入《はい》ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛《ひごなま》りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓《せん》を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
下女は心得貌《こころえがお》に起って行く。幅の狭い唐縮緬《とうちりめん》をちょきり結びに御臀《おしり》の上へ乗せて、絣《かすり》の筒袖《つつそで》をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪《そくはつ》に、だいぶ碌さんと圭さんの胆《たん》を寒からしめたようだ。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接《つ》いだようにつけた。
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際|田舎者《いなかもの》の精神に、文明の教育を施《ほどこ》すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも好《よ》かろう。しかしそれより前に文明の皮を剥《む》かなくっちゃ、いけない」
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜《すいか》のような事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑《げび》た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性《こんじょう》を社会全体に蔓延《まんえん》させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根《しょうね》の悪い奴があるものだ」
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる美事《みごと》なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、
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