たまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」
「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」
「そうでもないさ」
「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」
「幾度もあるよ」
「なに一度もない」
「昨日《きのう》も聞いてるじゃないか。谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」
「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩《うどん》を何遍も喰ってるじゃないか」
「ハハハハ、ともかくも……」
「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」
「そうか」
「おい、君」
「ええ」
「君じゃない。君さ、おい宿の先生」
「ねえ」
「君は御者《ぎょしゃ》かい」
「いいえ」
「じゃ御亭主かい」
「いいえ」
「じゃ何だい」
「雇人《やといにん》で……」
「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」
「うん、それがどうしたんだ」
「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、彼方《あっち》へ行っても好いよ」
「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」
「そこが今|悶着中《もんちゃくちゅう》さ」
「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度《したく》が出来ます」
「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」
「へへへへ御緩《ごゆ》っくり」
「おい、行ってしまった」
「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促《さいそく》するからさ」
「ハハハありゃ御者《ぎょしゃ》でも亭主でもないんだとさ。弱ったな」
「何が弱ったんだい」
「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が賭《かけ》に勝つ訳《わけ》になるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」
「なるものか、そんな約束はしやしない」
「なに、したと見傚《みな》すんだね」
「勝手にかい」
「曖昧《あいまい》にさ。そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」

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