い」と碌さんは下女の顔を覗《のぞ》き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非《ぜひ》登る訳《わけ》かな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
言い棄《す》てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然《もくねん》と、眉《まゆ》を軒《あ》げて、奈落《ならく》から半空に向って、真直《まっすぐ》に立つ火の柱を見詰めていた。
四
「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭《けい》さんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入《はい》らずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋《うどんや》の爺《じい》さんがか」と碌《ろく》さんはしきりに胸を撫《な》で廻す。
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡《ふりょうけん》だ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥《はる》かに尊《たっ》といさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性《しょう》に合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨《うら》んでも後《あと》の祭《まつ》りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇《あそ》の火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々|剣呑《けんのん》になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐《てんゆう》があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。剛健党《ごうけんとう》になるかと思うと、天祐派《てんゆうは》になる。この次ぎには天誅組《てんちゅうぐみ》にでもなって筑波山《つくばさん》へ立て籠《こも》るつもりだろう」
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に逢《あ》ったんだい」
「いつでもいいさ。桀紂《けっちゅう》と云えば古来から悪人として通《とお》り者《もの》だが
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