。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情《なさけ》ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶《あいさつ》をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿《えびす》ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎《びん》に這入《はい》ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛《ひごなま》りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓《せん》を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
 下女は心得貌《こころえがお》に起って行く。幅の狭い唐縮緬《とうちりめん》をちょきり結びに御臀《おしり》の上へ乗せて、絣《かすり》の筒袖《つつそで》をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪《そくはつ》に、だいぶ碌さんと圭さんの胆《たん》を寒からしめたようだ。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接《つ》いだようにつけた。
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際|田舎者《いなかもの》の精神に、文明の教育を施《ほどこ》すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも好《よ》かろう。しかしそれより前に文明の皮を剥《む》かなくっちゃ、いけない」
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜《すいか》のような事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑《げび》た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性《こんじょう》を社会全体に蔓延《まんえん》させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根《しょうね》の悪い奴があるものだ」
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる美事《みごと》なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、
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