ちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々《いいだくだく》として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半《せっぱん》されるんだから、愚《ぐ》の極《きょく》だ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇《あそ》の噴火口を見る事ができるだろう」
「可愛想《かわいそう》に。一人《ひとり》だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外|意気地《いくじ》がないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟《りくつ》がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑《けんのん》なものだ」
「なあに年《ねん》が年中《ねんじゅう》思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉《コレラ》になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」
「時にあの髯《ひげ》を抜いてた爺さんが手拭《てぬぐい》をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう湯気《ゆけ》に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入《はい》っていたまえ」
「おや、あとから竹刀《しない》と小手《こて》がいっしょに来たぜ」
「どれ。なるほど、揃《そろ》って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽《ゆぶね》へ這入るのかな」
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌《すはだ》を臍《へそ》のあたりまで吹き抜
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