「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞《ふるま》ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀《しない》と小手《こて》の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気《のんき》なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳《わけ》が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似《まね》をする。
「ハハハハそこでそら竹刀《しない》を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家《こうがいか》かも知れない。そらよく草双紙《くさぞうし》にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本|毛剃九右衛門《けぞりくえもん》て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉《ゆ》に這入《はい》りに来る時、覗《のぞ》いて見たら、二人共|木枕《きまくら》をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載《の》せたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「伊賀《いが》の水月《すいげつ》さ」と碌さんは、躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻《ひね》った。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入《はい》る。圭さんはまた槽《ふね》のなかへ突立《つった》った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上《のぼせ》るから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
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