の事も一所に纏《まと》めて考えなければならなかった。凡《すべ》てが頽廃《たいはい》の影であり凋落《ちょうらく》の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。
 姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。
「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶《あいさつ》した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。
「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣《や》り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方《あなた》と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」
 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先《つとめさき》の近所に囲っているという噂《うわさ》はまるで嘘《うそ》のようであった。
 古風な言葉で形容すれば、ただ算筆《さんぴつ》に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧《わ》いた。
「姉さんは」
「それに御夏《おなつ》がまた例の喘息《ぜんそく》でね」
 姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括《くく》り枕《まくら》に倚《よ》りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗《のぞ》きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。
「どうです」
 彼女は頭を真直《まっすぐ》に上る事さえ叶《かな》わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉《のど》に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽《せき》の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍《はた》で見ていても気が退《ひ》けた。
「苦しそうだな」
 彼は独り言のようにこう囁《つぶ》やいて、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
 見馴れない四十|恰好《がっこう》の女が、姉の後《うしろ》から脊中《せなか》を撫《さす》っている傍に、一本の杉箸《すぎばし》を添えた水飴《みずあめ》の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。
「どうも一昨日《おととい》からね、あなた」
 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前《まのあたり》この猛烈な咳嗽《せき》と消え入るような呼息遣《いきづかい》とを見ていると、病気に罹《かか》った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。
「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私《わたし》はあっちへ行くから」
 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。

     二十五

 比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然《じねん》と末枯《すが》れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫《ごう》も感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲《どうせい》して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例《ためし》のない男であった。
 健三の這入《はい》って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》を外した。
「今ちょっと貴方《あなた》が茶の間へ行っていらしった間に、下《くだ》らないものを読み出したんです」
 比田と読書《とくしょ》――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。
「何ですか、それは」
「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」
 比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談《じょうざんきだん》』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳《せ》き込んでいるのを、まるで余所事《よそごと》のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何《いか》にも能《よ》くこの男の性質をあらわしていた。
「私《わたし》ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」
 彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山《ゆあさじょうざん》を講釈師と間違えるほどでもなかった。
「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴《きょくていばきん》とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝《はっけんでん》』も持っているんだが」
 なるほど彼
前へ 次へ
全86ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング