健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強《し》いていえば、今日《こんにち》までただ世帯染《しょたいじ》みて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」
彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好《い》い時分ですから」
彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊《ぼっ》ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」
「そうですか」
健三は素《そ》ッ気《け》ない挨拶《あいさつ》をしたなり、その人の顔を凝《じっ》と見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所《あつかいじょ》を遣《や》っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯《いたずら》をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱《すずりばこ》の中にあったんでさあ。あの時|金盥《かなだらい》に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐《すわ》っている人のその時の姿などは夢にも憶《おも》い出せなかった。
「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上《あが》ったような訳合《わけあい》なんです」
彼は直《すぐ》本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。
「もう再び御宅へは伺わないといってますから」
「この間帰る時既にそういって行ったんです」
「で、どうでしょう、此所《ここ》いらで綺麗《きれい》に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」
健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気《こうき》を快よく思わなかった。
「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私《わたし》にはよッぽど心持が好いんです」
その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。
「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏《まと》めたものを渡して、あの書付と引《ひ》き易《か》えになすった方が好くはありませんか」
健三はその書付を慥《たしか》に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後《こうご》御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅《わずか》二行|余《あまり》に綴《つづ》って先方へ渡した。
「あんなものは反故《ほご》同然ですよ。向《むこう》で持っていても役に立たず、私が貰《もら》っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」
健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。
九十六
話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ情《じょう》に訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡《りょうけん》が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。
「書付を買えの、今に迷惑するのが厭《いや》なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後《こうご》一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」
「ええそれがつまり私《わたくし》の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」
健三はそんなら何故《なぜ》早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。
「じゃどの位出して下さいます」
健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明《はっきり》した目安の出て来《き》ようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。
「まあ百円位なものですね」
「百円」
その人はこう繰り返した。
「どうでしょう、責《せ》めて三百円位にして遣《や》る訳には行きますまいか」
「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」
「御尤《ごもっと》もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」
「そんな事をいやあ、私《わたし》だって困っています」
「そうですか」
彼の語気は
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