までだ」
健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多《がらくた》として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。
「もうこっちへ引き取って、給仕《きゅうじ》でも何でもさせるからそう思うがいい」
健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾歳《いくつ》だったか能《よ》く覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分|萌《きざ》している頃であった。
「給仕になんぞされては大変だ」
彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸《さいわい》にしてその言葉は徒労《むだ》に繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。
「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」
彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘い終《おお》せたものだという誇りも大分《だいぶ》交《まじ》っていた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。
彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。
彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。彼が御常を忌《い》むのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。一方から見ると、他《ひと》と反《そり》が合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。
九十二
細君は健三に向っていった。――
「貴夫《あなた》に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
健三の心はこうした諷刺《ふうし》を笑って受けるほど落付《おちつ》いていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益《ますます》窮屈にした。
「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好《い》いと思っているんだろう」
「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」
生憎《あいにく》細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質《たち》であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手《ふところで》をしたなり澄ましていた。行李《こうり》一つ絡《から》げるにさえ、彼は細紐《ほそびき》をどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」
動かない彼は、傍《はた》のものの眼に、如何《いか》にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益《ますます》反対の方面に移して行った。
彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎《いなか》へ伴《つ》れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐《あぐら》をかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。
「あれじゃ仕方がない。私《わたくし》に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」
健三の申出《もうしで》は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣《ほしいま》まにする我子を見て、何という未来の心配も抱《いだ》いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。
「もし田舎へ遣《や》って貴夫と衝突したり何《なん》かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」
細君の弁解を聞いた時、健三は満更《まんざら》の嘘《うそ》とも思わなかった。けれどもその他《ほか》にまだ意味が残っているようにも考えた。
「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」
周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所《ここ》にあるのではなかろうかと推察した。
なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧《りこう》過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日《こんにち》に至るま
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