みと、が交《まじ》っていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛《かあい》くなるばかりであった。
彼女はぐたぐたして手応《てごた》えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬《ほお》へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。
彼女は自分の傍《わき》にその子を置いて、また裁《たち》もの板の前に坐《すわ》った。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐《ね》ているその顔を、心配そうに上から覗《のぞ》き込んだ。
「そりゃ誰の着物だい」
「やっぱりこの子のです」
「そんなにいくつも要《い》るのかい」
「ええ」
細君は黙って手を運ばしていた。
健三は漸《やっ》と気が付いたように、細君の膝《ひざ》の上に置かれた大きな模様のある切地《きれじ》を眺めた。
「それは姉から祝ってくれたんだろう」
「そうです」
「下らない話だな。金もないのに止せば好《い》いのに」
健三から貰《もら》った小遣の中《うち》を割《さ》いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。
「つまり己《おれ》の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」
「でも貴夫《あなた》に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」
姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他《ひと》から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。
「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田《ひだ》に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」
こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。
「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」
他《ひと》を訪問する時に殆《ほと》んど土産《みやげ》ものを持参した例《ためし》のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんす[#「めりんす」に傍点]を見詰めていた。
八十六
「だから元は御姉《おあねえ》さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」
細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――
「十《とお》のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的《あて》に何か呉れるんだそうですよ」
「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」
「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」
他《ひと》から見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり拵《こしら》えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。
「随分厄介な交際《つきあい》だね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」
「傍《はた》から見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」
健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。
今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴《したた》る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。
兼《かね》てからわが座敷の如何《いか》にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂《だんござか》にある唐木《からき》の指物師《さしものし》の所へ行って、紫檀《したん》の懸額《かけがく》を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰《もら》った北魏《ほくぎ》の二十品《にじっぴん》という石摺《いしずり》のうちにある一つを択《え》り出して入れた。それからその額を環《かん》の着いた細長い胡麻竹《ごまだけ》の下へ振《ぶ》ら下げて、床の間の釘《くぎ》へ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付《おちつ》かないせいか、額は静かな時でも斜《ななめ》に傾《かたぶ》いた。
彼はまた団子坂を下りて谷中《やなか》の方へ上《のぼ》って行った。そうして其所《そこ》にある陶器店から一個の花瓶《はないけ》を買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に贅沢《ぜいたく》をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。
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