と評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。偶然というよりもむしろ必然の結果であった。互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。
細君の父が健三の手で調達《ちょうだつ》された金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。
「産婆は何時頃生れるというのかい」
「何時って判然《はっきり》いいもしませんが、もう直《じき》ですわ」
「用意は出来てるのかい」
「ええ奥の戸棚の中に入っています」
健三には何が這入《はい》っているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」
「今度《こんだ》は死ぬかも知れないっていってたじゃないか」
「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」
「どうも御気の毒さまだな」
「好《い》いわ、死ねば貴夫《あなた》のせいだから」
健三は遠い田舎《いなか》で細君が長女を生んだ時の光景を憶《おも》い出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨に応《こた》えるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛《しが》み付いた。そうして拷問でもされる人のように唸《うな》った。彼は自分の細君が身体《からだ》の上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。
「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」
「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」
「一人で生めるかい」
細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。生《うま》れ付《つき》心配性な彼は、細君の唸《うな》り声を余所《よそ》にして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。
産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。
「一週間以内かね」
「いえもう少し後《あと》でしょう」
健三も細君もその気でいた。
八十
日取が狂って予期より早く産気《さんけ》づいた細君は、苦しそうな声を出して、傍《そば》に寐《ね》ている夫の夢を驚ろかした。
「先刻《さっき》から急に御腹《おなか》が痛み出して……」
「もう出そうなのかい」
健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。
「少し撫《さす》って遣《や》ろうか」
起き上る事の臆劫《おっくう》な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか有《も》っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干《みちひ》のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。
「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切《ひとしきり》痛んではまた一仕切治まるんだろう」
「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」
細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。凝《じっ》と蒲団《ふとん》の上に落付《おちつ》いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。
「産婆を呼ぼうか」
「ええ、早く」
職業柄産婆の宅《うち》には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳《か》け付けるのを例にしていた。
初冬《はつふゆ》の暗い夜はまだ明け離れるのに大分《だいぶ》間があった。彼はその人とその人の門《かど》を敲《たた》く下女《げじょ》の迷惑を察した。しかし夜明《よあけ》まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖《ふすま》を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急《せ》き立てて暗い夜の中へ追い遣った。
彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益《ますます》劇《はげ》しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で停《とま》る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。
産婆は容易に来なかった。細君の唸《うな》る声が絶間《たえま》なく静かな夜の室《へや》を不安に攪《か》き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺《こら》えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩《ぶんべん》した。
「確《しっ》かりしろ」
すぐ立って蒲団の裾《すそ》の方に廻った健三は、どうして好《い》いか分らなかった。その時例の洋燈《ランプ》は細長い火蓋《ほや》の中で、死のように静
前へ
次へ
全86ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング