土らしかった。
彼は或人の名を挙げた。
「向うでは貴方《あなた》を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」
「知っています」
健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い交際《つきあい》はなかった。卒業して独乙《ドイツ》へ行って帰って来たら、急に職業がえをして或《ある》大きな銀行へ入ったとか人の噂《うわさ》に聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。
「まだ銀行にいるんですか」
細君の父は点頭《うなず》いた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しく訊《き》いて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。
「で当人のいうには、貸しても好い、好いが慥《たしか》な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」
「なるほど」
「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」
健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇《ちゅうちょ》しなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上|他《ひと》に知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。平生《へいぜい》彼の口にする知合《しりあい》のうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。
「何故《なぜ》私の判が必要なんでしょう」
「貴方なら貸そうというのです」
健三は考えた。
七十四
彼は今日《こんにち》まで証書を入れて他《ひと》から金を借りた経験のない男であった。つい義理で判を捺《つ》いて遣《や》ったのが本《もと》で、立派な腕を有《も》ちながら、生涯社会の底に沈んだまま、藻掻《もが》き通しに藻掻いている人の話は、いくら迂闊《うかつ》な彼の耳にもしばしば伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物が能《よ》く働らきたがった。この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って如何《いか》にも無情で、冷刻で、心苦しかった。
「私でなくっちゃいけないのでしょうか」
「貴方《あなた》なら好《い》いというんです」
彼は同じ事を二度|訊《き》いて同じ答えを二度受けた。
「どうも変ですね」
世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく交際《つきあ》った事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。
「どんな目に逢わされるか分りゃしない」
彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡《しゅんじゅん》しなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。
「印を捺《お》す事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調《ととの》えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の有《も》っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ中《あた》って見ましょう。無論|御入用《おいりよう》だけの額《たか》は駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」
いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強《し》いなかった。
「どうぞそれじゃ何分」
彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱《くつぬぎ》の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上《のぼ》らずにしまった。
けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、火鉢《ひばち》や烟草盆《タバコぼん》を一所に買って歩いてもらった友達の宅《うち》へまた出掛けた。
「金を貸してくれないかね」
彼は藪《やぶ》から棒に質問を掛
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