二人が衝突する大根《おおね》は此所《ここ》にあった。
 夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女のくせに」という気になった。それが一段|劇《はげ》しくなると忽《たちま》ち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という挨拶《あいさつ》が何時でも貯《たくわ》えてあった。
「いくら女だって、そう踏み付にされて堪《たま》るものか」
 健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。
「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵《こしら》えるがいい」
 健三の論理《ロジック》は何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理《ロジック》と同じものになってしまった。
 彼らはかくして円《まる》い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。
 健三はその輪の上にはたりと立ち留《どま》る事があった。彼の留る時は彼の激昂《げっこう》が静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融《と》け出す時に限っていた。その時健三は漸《ようや》く怒号をやめた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。
 細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎《あいにく》留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。
「何か用でもあったのかい」
「ええ少し御話ししたい事があるんですって」
「何だい」
 細君は答えなかった。
「知らないのかい」
「ええ。また二、三日うちに上《あが》って能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったら直《じか》に聞いて下さい」
 健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。
 久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けて来《き》ようなどとは夢にも予期しなかった。その不審が例《いつも》より彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や無愛嬌《ぶあいきょう》から来る寡言《かげん》とも違っていた。
 夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。細い燈火《ともしび》の影を凝《じっ》と見詰めていると、灯《ひ》は動かないで風の音だけが烈《はげ》しく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈《あかり》を間に置いて、しばらく森《しん》と坐《すわ》っていた。

     七十二

「今日《きょう》父が来ました時、外套《がいとう》がなくって寒そうでしたから、貴方《あなた》の古いのを出して遣《や》りました」
 田舎《いなか》の洋服屋で拵《こしら》えたその二重廻《にじゅうまわ》しは、殆《ほと》んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。
「あんな汚ならしいもの」
 彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。
「いいえ。喜こんで着て行きました」
「御父《おとっ》さんは外套を有《も》っていないのかい」
「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」
 健三は驚ろいた。細い灯《ひ》に照らされた細君の顔が急に憐《あわ》れに見えた。
「そんなに窮《こま》っているのかなあ」
「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」
 口数の寡《すく》ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々《うすうす》知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。
 彼は絹帽《シルクハット》にフロックコートで勇ましく官邸の石門《せきもん》を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木《かたぎ》を久《きゅう》の字形《じがた》に切り組んで作ったその玄関の床《ゆか》は、つるつる光って、時によると馴《な》れない健三の足を滑らせた。前に広い芝生《しばふ》を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続《つづ》いて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所《そこ》で細君の家族のものと一緒に晩餐《ばんさん》の卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多《カルタ》に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡《うち》に更《ふか》した記憶もあった。
 西洋館に続いて日本建《にほんだて》も一棟《ひとむね》付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女《げじょ》と二人の書生が住んでいた。職務柄客の
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