物屋があるが、彼所《あすこ》ならもっとずっと安く拵《こしら》えてくれますよ。こんだ要《い》る時にゃ、私が頼んで上げましょう」
 健三の紙入は何時も充実していなかった。全く空虚《から》の時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて尻《しり》を長くした。
「小遣を遣《や》らないうちは帰らない。厭《いや》な奴だ」
 健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。
 そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十と纏《まとま》った金を、平気に向うから請求し始めた。
「どうか一つ。私もこの年になって倚《か》かる子はなし、依怙《たより》にするのは貴方《あなた》一人なんだから」
 彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、凹《くぼ》んだ鈍い眼を狡猾《こうかつ》らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。
「これだけの生活《くらし》をしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」
 彼はこんな事まで口へ出していった。
 彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。
「ありゃ成し崩しに己《おれ》を侵蝕《しんしょく》する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って来《き》ようってんだ。実に厭な奴だ」
 健三は腹が立ちさえすれば、よく実に[#「実に」に傍点]とか一番[#「一番」に傍点]とか大[#「大」に傍点]とかいう最大級を使って欝憤《うっぷん》の一端を洩《も》らしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分《だいぶ》落付《おちつ》いていた。
「貴夫《あなた》が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」
 健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした頬《ほお》と唇とに見せた。
「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」
「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」
「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」
 細君には健三の意味が能《よ》く通じなかった。
「どうせ貴夫の眼から見たら、妾《わたくし》なんぞは馬鹿でしょうよ」
 健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。
 二人の間に感情の行違《ゆきちがい》でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影《うしろかげ》を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝《じっ》と坐《すわ》っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時《いつ》までも構う気色《けしき》を見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢《ざしきろう》へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。

     五十七

 健三の心は紙屑《かみくず》を丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪《かんしゃく》の電流を何かの機会に応じて外《ほか》へ洩《も》らさなければ苦しくって居堪《いたた》まれなくなった。彼は子供が母に強請《せび》って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛《けと》ばして見たりした。赤ちゃけた素焼《すやき》の鉢が彼の思い通りにがらがらと破《われ》るのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷《むご》たらしく摧《くだ》かれたその花と茎の憐《あわ》れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢《はか》ない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉《うれ》しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事は敢《あえ》てし得なかった。
「己《おれ》の責任じゃない。必竟《ひっきょう》こんな気違じみた真似《まね》を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」
 彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。
 平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱で燻《くす》ぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女《げじょ》を叱《しか》った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を恥《はじ》た。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない己《おの》れを怒《いか》った。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と
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