《さが》りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹《べんけいがに》がよく鋏《はさみ》を出した。
 島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退《の》いたものか、それらは凡《すべ》て健三の知識の外《ほか》に横《よこた》わる秘密であった。
 一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻《さい》の御常《おつね》は、化物《ばけもの》と同居でもしているように気味を悪がった。尤《もっと》もこの西洋人は上靴《スリッパー》を穿《は》いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有《も》っていた。御常が癪《しゃく》の気味だとかいって蒼《あお》い顔をして寐《ね》ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。

     四十

 西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広い室《へや》は既に扱所《あつかいじょ》というものに変っていた。
 扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや椅子《いす》が今日《こんにち》のように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く坐《すわ》るのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から遣《や》って来るものも、悉《ことごと》く自分の下駄《げた》を土間《どま》へ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ畏《かしこ》まった。
 島田はこの扱所の頭《かしら》であった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当《つきあた》りに設けられた。其所《そこ》から直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓《れんじまど》の際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は慥《たし》かにそれを彼に語り得なかった。
 島田の住居《すまい》と扱所とは、もとより細長い一つ家《いえ》を仕切ったまでの事なので、彼は出勤《しっきん》といわず退出《たいしつ》といわず、少なからぬ便宜を有《も》っていた。彼には天気の好《よ》い時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫《おっくう》を省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅《うち》へ帰った。
 こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱《すずりばこ》の中にある朱墨《しゅずみ》を弄《いじ》ったり、小刀の鞘《さや》を払って見たり、他《ひと》に蒼蠅《うるさ》がられるような悪戯《いたずら》を続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。
 島田は吝嗇《りんしょく》な男であった。妻《さい》の御常は島田よりもなお吝嗇であった。
「爪《つめ》に火を点《とも》すってえのは、あの事だね」
 彼が実家に帰ってから後《のち》、こんな評が時々彼の耳に入《い》った。しかし当時の彼は、御常が長火鉢《ながひばち》の傍《そば》へ坐って、下女《げじょ》に味噌汁《おつけ》をよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。
「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀《かわい》そうだ」
 彼の実家のものは苦笑した。
 御常はまた飯櫃《おはち》や御菜《おかず》の這入《はい》っている戸棚に、いつでも錠を卸《お》ろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦《そば》を取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように膳《ぜん》を出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。
 しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈《きはちじょう》の羽織《はおり》を着せたり、縮緬《ちりめん》の着物を買うために、わざわざ越後屋《えちごや》まで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択《よ》り分けている間に、夕暮の時間が逼《せま》ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
 彼の望む玩具《おもちゃ》は無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交《まじ》っていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟《さんばそう》の影を映して、烏帽子《えぼし》姿に鈴を振らせたり足を動かさせ
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