喧嘩《けんか》をして、もう向うから謝罪《あやま》って来ても勘忍してやらないと覚悟を極《き》めたが、いくら待っていても、姉が詫《あや》まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰《てもちぶさた》なので、向うで御這入《おはい》りというまで、黙って門口《かどぐち》に立っていた滑稽《こっけい》もあった。……
古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を有《も》つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。
「近頃は身体《からだ》の具合はどうです。あんまり非道《ひど》く起る事もありませんか」
彼は自分の前に坐《すわ》った姉の顔を見ながらこう訊《たず》ねた。
「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好《い》いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせい[#「がせい」に傍点]に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊《あす》びに来てくれた時分にゃ、随分|尻《しり》ッ端折《ぱしょ》りで、それこそ御釜《おかま》の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」
健三は些少《さしょう》ながら月々いくらかの小遣を姉に遣《や》る事を忘れなかったのである。
「少し痩《や》せたようですね」
「なにこりゃ私《あたし》の持前《もちまえ》だから仕方がない。昔から肥《ふと》った事のない女なんだから。やッぱり癇《かん》が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」
姉は肉のない細い腕を捲《まく》って健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈《かさ》が、怠《だる》そうな皮で物憂《ものう》げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。
「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六《む》ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父《おとっ》さんや御母《おっか》さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」
姉の眼にはいつか涙が溜《たま》っていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖《くちくせ》のようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟《へんくつ》じゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。
五
そんな古い記憶を喚《よ》び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層《ひとしお》健三の眼についた。
「時に姉さんはいくつでしたかね」
「もう御婆《おばあ》さんさ。取って一《いち》だもの御前さん」
姉は黄色い疎《まば》らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると私《わたし》とは一廻《ひとまわり》以上違うんだね。私ゃまた精々違って十《とお》か十一だと思っていた」
「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人《うち》が羊の三碧《さんぺき》で姉さんが四緑《しろく》なんだから。健ちゃんは慥《たし》か七赤《しちせき》だったね」
「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
「繰って見て御覧、きっと七赤だから」
健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢《とし》の話はそれぎりやめてしまった。
「今日は御留守なんですか」と比田《ひだ》の事を訊《き》いて見た。
「昨夕《ゆうべ》も宿直《とまり》でね。なに自分の分だけなら月に三度か四度《よど》で済むんだけれども、他《ひと》に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他《ひと》の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ寐《ね》るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、向《むこう》へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」
健三は黙って障子の傍《そば》に据えてある比田の机を眺めた。硯箱《すずりばこ》や状袋《じょうぶくろ》や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮《せがわ》をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから綺麗《きれい》に光った小さい算盤《そろばん》もその下に置いてあった。
噂《うわさ》によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番《ひょうばん》であった。宿直《とまり》だ宿直だといって宅《うち》へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。
「比田さんは近頃どうです。大分《だいぶ》年を取っ
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