から出立してその先へ進むはずのところをツイわき道へそれて職業上の片輪《かたわ》という事を御話しし出したから、ついでにその片輪の所置について一言申上げて、また己のため人のための本論に立ち帰りたい。順序の乱れるのは口に駆《か》られる講演の常として御許しを願います。
そこで世の中では――ことに昔の道徳観や昔堅気《むかしかたぎ》の親の意見やまたは一般世間の信用などから云いますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云って賞《ほ》めそやします。いわゆる家業に精を出す感心な人というのは取《とり》も直《なお》さず真黒になって働いている一般的の知識の欠乏した人間に過ぎないのだから面白い。露骨に云えば自ら進んで不具になるような人間を世の中では賞《ほ》めているのです。それはとにかくとして現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭《せば》められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実|銘々《めいめい》孤立して山の中に立て籠《こも》っていると一般で、隣り合せに居《きょ》を卜《ぼく》していながら心は天涯《てんがい》にかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様に陥《おちい》って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。ちょうど乾涸《ひから》びた糒《ほしい》のようなもので一粒《ひとつぶ》一粒に孤立しているのだから根ッから面白くないでしょう。人間の職業が専門的になってまた各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると当面の事以外は何も分らなくなる。また分らせようという興味も出て来にくい。それで差支《さしつかえ》ないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部から萌《きざ》して来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。したがってこの孤立支離の弊を何とかして矯《た》めなければならなくなる。それを矯める方法を御話しするためにわざわざこの壇上に現われたのではないから詳《くわ》しい事は述べませんが、また述べるにしたところで大体はすでに諸君も御承知の事であるが、まあ物のついでだから一言それに触れておきましょう。すでに個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄《きはく》から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐《お》われて日もまた足らぬ時間しかもたない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割《さ》いて一般の人間を広く了解《りょうかい》しまたこれに同情し得る程度に互の温味《あたたかみ》を醸《かも》す法を講じなければならない。それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘《へい》して知識上の啓発《けいはつ》をはかるのも便法でありますし、またそう知的の方面ばかりでは窮屈すぎるから、いわゆる社交機関を利用して、互の歓情を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つく》すのも良法でありましょう。時としては方便の道具として酒や女を用いても好いくらいのものでしょう。実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違《けんとうちがい》の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融《と》かし合う機械の具《そなわ》った場所で、その影響の下に、角《かど》の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。現に事が纏《まとま》るという実用上の言葉が人間として彼我《ひが》打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の機関として上流の人に用いられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、ただ自家専門の職業にのみ腐心してはいられないものだという例に御話したくらいのものであります。本来を云うと私はそういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙《あ》げて文学書を御読みにならん事を希望するのであります。これは我が田へ水を引くような議論にも見えますが、元来文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々《せきらら》の人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁《しょうへき》を打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。少くとも芸妓を上げて酒を飲んだと同等以上の効果がありそうに思われるのであります。あなた方
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